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分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、室町時代後期の享徳4年(1455年)1月21日・1月22日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、足利成氏率いる鎌倉公方勢と上杉顕房率いる(総大将は在京の上杉房顕)関東管領勢との間で行われた合戦である。 この戦いをきっかけに応仁の乱と並んで室町時代最大の戦乱といわれる享徳の乱の幕が開かれる事となった。 == 背景 == 永享の乱によって鎌倉公方が滅亡してから10年を経て鎌倉府を再興しようとする動きが現れた。京都の室町幕府では、過去の幕府と鎌倉公方との対立の歴史からこうした動きには懐疑的であり管領細川勝元は反対論を、前管領の畠山持国は賛成論を唱えて議論となったが、越後守護である上杉房定の懇願もあり、結局はこれに同意した。 新しく鎌倉公方に選ばれたのは幕府によって滅ぼされた前公方足利持氏の遺児・永寿王丸であり、これを補佐する新しい関東管領には前関東管領上杉憲実の子である山内上杉家の憲忠が選ばれた。既に出家していた上杉憲実は永享の乱が自分と持氏の意見対立がこじれた事をきっかけにして起こった事から、永寿王丸は自分やその息子達に恨みを抱いていると考えて憲忠に辞退を迫った。だが、山内上杉家の家宰・長尾景仲と扇谷上杉家の家宰・太田資清が憲忠に強く就任を勧めたために憲忠もこれに応じる事となった。 文安4年(1447年)、永寿王丸と上杉憲忠は鎌倉に入って憲忠が関東管領に任命され、2年後の宝徳元年(1449年)に元服して従五位下左馬頭に任命された永寿王丸は将軍足利義成(後の義政)の一字を拝領して「足利成氏」と名乗って正式に第5代鎌倉公方に就任した。だが、成氏が結城成朝・簗田持助・里見義実といった永享の乱・結城合戦で鎌倉公方家に殉じた武将の遺児達を側近として登用するようになると、上杉氏やその家臣団の反発も高まっていった。 宝徳2年(1450年)、相模国鎌倉郡長尾郷(現在の横浜市栄区長尾台)が足利成氏の命令を奉じた簗田持助に押領される事件が起きた。この地はその名の通り上杉氏筆頭重臣の長尾氏発祥の地であり、そこにある御霊宮は長尾氏一門の祖先祭祀の中心であった。この事態に長尾景仲ら長尾氏一族は激しく憤慨して、長尾氏に同情的な太田資清(景仲の娘婿でもある)とともに激しく抗議したが、成氏側は返還には応じようとしなかった。 宝徳2年4月20日、長尾景仲・太田資清が鎌倉に兵500騎を入れてクーデターを起こそうとした。だが、成氏は事前にこの情報を入手すると、その夜のうちに小山持政らに守られて鎌倉を脱出して江ノ島に立て籠もった。翌21日、鎌倉に突入した景仲らは成氏を追って江ノ島に迫った。そこに小田持家・宇都宮等綱・千葉胤将が成氏救援のために出陣してきたため、由比ヶ浜で両軍は交戦した。 長尾・太田軍は惨敗した上に、事情を知らない主君・上杉憲忠までが成氏救出のために小幡氏らを出陣させたことが明らかになったため、長尾景仲と太田資清は資清の主君である前扇谷上杉家当主上杉持朝の糟谷館(現在の神奈川県伊勢原市)に逃げ込んだ。上杉憲忠は事件に全く関与していなかったが、襲撃したのが長尾・太田の兵であると知って謹慎してしまった(江ノ島合戦)。 事態を知った幕府は当時管領に復帰していた畠山持国が仲裁にあたり、成氏の有利の裁定が下された。これを受けて成氏は8月4日に鎌倉に戻り、上杉憲忠も10月に入って職務に復帰、その懇願によって長尾景仲らの罪も赦免された。ところが、その後も成氏側・憲忠側双方の武士が対立陣営の所領を押領する事件が頻発した。 これに対して、再度持国に代わって管領に就任した細川勝元は一転して鎌倉公方の権力削減に乗り出した。一方、憲忠の義父でもあった上杉持朝はこのまま放置すれば娘婿の憲忠の身に危険が及ぶと考えて、秘かに長尾景仲とともに上杉氏の本国である上野国に入って成氏討伐の準備を進めるようになっていった。 一方、こうした動きを掴んだ足利成氏やその周辺も対抗策を秘かに練り始めていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「分倍河原の戦い (室町時代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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